2017年01月01日

2017年、年の初めに> 決める ということ

2017年元旦、多くの人から年賀状を頂いたが
こちらはまだ書いていない。

昨年末は楽勝で年内投函できると考え
一応年内には原案作成していたのだが
最後の一押しの確定をしないままずるずると新年となった。

年が明けてみれば、年賀状書くのなんかイヤ(面倒)だなぁ、
と感じるテイタラク。

あれこれ心を探ってみると
どうやら「決める」力が弱いように思う。
決断力の無さ、というよりは、
決める事により他の選択肢を消すのがイヤな様だ。

ため込んだ資料をなかなか思い切って処分できないのも
食品を最後にちょっとだけ残して結局ダメにしてしまったり
ビデオの録画をため込んでしまったり、
少しでも気になる番組は
録画しないでおくという選択ができなかったり

まぁ、こう「…できない」と書き連ねるとネガティブだが
混沌のまま選択肢を残すという事で見えてくるものもあると思う

選択肢をできるだけ残しながらやってきたのは
それなりの覚悟、というか、再確認を繰り返しながら
自分なりのやり方として採用してきた事であり
後悔の対象という事ではない。
改めての、自分の性向の再確認の意味合いだ。

決めないでおくことで、
最終的に決める段階で捨てるものを精査できる
という意味合いもある。

ギリギリまでプロセスを吟味する
というテイストを好んでいるという事だろうか。

活かせるものはすべて活かす、物を大事にする
という昔ながらの価値観のしがらみが抜けない
という事なのかも知れない。

持続する、再生可能な社会を考える上では
こういう生き方も大事なのではないかとも思う。
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2016年02月22日

哲学

自メモ>手探り思考> 
我が脳ミソはどうも哲学志向(嗜好か?)というものに支配されている様なのだ
が、その哲学とは「言葉で分かりやすく伝えられる、人への普遍的メッセージで、
それを受け取った人の自発的志向や行動に作用し、その人や、ひいては社会を幸
せにする事のできるもの」と言える ?
(2016/2/22 Twitter)
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2015年10月27日

マルチナ・ヒンギス選手と遭遇 …

往年の名テニスプレーヤー、マルチナ・ヒンギス、と言っても実はまだダブルスは現役でUSオープンでは確か世界ランキング一位だったと思いますが、シンガポールのホテルで遭遇しました。

…と、思うのだが…、(^^;; 
というのがまぁ真相ではありますけど。

マリーナ・ベイ・サンズの屋上階のプールから自分の部屋に引き返す時、偶然に同じエレベータに乗り合わせてきた男女が居たのですが、その女性がヒンギス選手にすごく似ていました。

あれ、もしかして?とおもわずマジ問い顔のこちらに、向こうは「エヘヘばれたか」、みたいな感じの表情を一瞬したのですが、さすがにこちらも「ホンマにホンマか?」と思っているうちに「知らん顔」になり、そうなるとあらためて「もしかして、…」とも切り出せず、そのままになってしまいました。

屋上57階から、先方は54階への移動で、まぁほんの20秒位だったし、こちらもバスローブ姿というなんともシマリのない格好だったので、審議未詳の状態で終わったのは、やむを得ないと言えばやむを得ないのですが、だんだんと「やっぱり、あれ、ヒンギスだった」という感が確定しています。

ヒンギス選手は、私も観戦に行った、WTAファイナルのダブルス部門に参加しておりシンガポール滞在中、また、マリーナ・ベイ・サンズホテルはそのWTAファイナルのスポンサーでそこに泊まっていてもおかしくない。また、54階の高層階は高級なお部屋の階。背格好もちょうどヒンギスくらいで、スパッツにジョギングシューズというスポーツ選手がリラックスした時に着そうな服、かろやかな身のこなし、顔も酷似、と、状況証拠がそろっている様にも思うわけです。

後から考えれば、「もし、間違っていれば失礼ですが…」と聞いてみれば良かったとも思うけど、なんだか連れの男性がいて、こちらはバスローブ姿で、なかなか問いかける事自体がちょっと憚られる感じもあり、シカタナカッタという所ではあります。

てなわけで、ここにこんな記事を書いて、あれは絶対ヒンギスだったよなぁ、ちゃんと問いかけて、握手でもしてもらったらよかったぁ、と、せめてもの妄想を楽しんでいるわけであります。

(^^)
posted by ふぅ〜わり ハッピー at 12:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2015年01月05日

(当面)不使用/不要 品

我が家には、

というより、私には、

当面使うこともないだろうが… という
不要/不使用品が数多くあり
それが住居のかなりのスペースを占拠している。
あまつさえ、貸倉庫(コンテナ形)まで契約している。
客観的立場に立てば苦笑を禁じ得ない。

ため込んだものは、仕事を通じて得た資料
録画したTV(ビデオテープ、DVD)
録音したCD、MD
本、雑誌(機内誌なども含む)
など。
こう書けば簡単だがこれが結構な分量ある。

どうも捨てがたく残しておいたのだが、
これは、
「使いたくなった時」のオプションとして確保
の心境である(あった)ようだと今思っている。

いや、本当の所は我ながらわからぬが
捨てるのが辛かったというのは実情。

これは、いわば歴史でもあるこれらの品を捨てることで
自分の人生の記録を捨てるという事にもなり、
それが辛いのだろうという見方もある。
(つまりは、死にたくない、という心情?)

ただ、もうあまり先も長くないと分かってきて
ここにきて考えるに
先に書いた「未来へのオプション」
(使いたくなった時に使えるように)
としての心であったように今は感じている。

一般には、いつまで経ってもモラトリアム
という評価に終わってしまうような側面もあるが

自分のやるべきことは都度優先順位を確認しながらやってきており
(やるべきことには、「休む」「だらだら」「迷う」も含め、《苦笑)
モラトリアム(原義:支払猶予 →「決定猶予の意味」のつもり)
つまりは優柔不断?という事とは違うように考えている。
(優柔不断、なんて、沽券に係わるのだ 《笑)

さてここへ来て
自分の人生はあと何ヶ月だろうと考えるに
どうやらやっとこれらのため込んだものが処分でき
回りをすっきりとさせるチャンスのようだ。

見事スッキリさせられるのか、
あるいは何かもやもやとした不決断が残り
整理が進まないのか、
我ながら興味深く、ワクワクする感じすらする。

なかなかに人の心はオモシロイ。

2015/1/5
posted by ふぅ〜わり ハッピー at 11:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年12月25日

2014/12/24 散財

県病院で、ガンの再発の可能性ありと言われてから
(再発とはいえ、肺ガンそのものでなく、周辺リンパへ)

いろいろ散財してしまった。
まぁ、別に診断のせいでということもなく
年末には、と考えていた事ではあったのだが。

まずは、Xmasのラッピングペーパー
A−one、SpaceTanaka(置いてなかった)
ダイソー2店舗、西長門(?)の文具や

docomo携帯のSONYへの型式変更

ヤマダ電機で、超小型無線ヘリのおもちゃ(4000円ほど)

ヤマダ電機へは再び引き返し、
40形(4K対応)のテレビ(Panasonic)、
3TのBRレコーダ(Panasonic)
19形のテレビ(Panasonic)
も購入。

ちょっと、リッチな気分と、若干、罪の気分。
診断にゆさぶられたのではないか、という
自分への注文。など。
posted by ふぅ〜わり ハッピー at 02:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2013年06月11日

台風と天気予報

本日は曇り時々雨の予想で、
朝一番は曇り空がいかにも雨の降りそうな感じだったけど、
昼前から晴れ始め、今は青空が結構ひろがっている。

台風3合の影響か
週間天気も明日から3日ほど雨模様だったのが、
曇りの予想になり、週末には晴れマークも。

こりゃ台風の進路が変わったに違いないと推測したら、
案の定ちょっと東よりに変わっていた。

台風の進路予想はやっぱり難しい様だ。
posted by ふぅ〜わり ハッピー at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

梅雨、曇り空

今年は早めの梅雨入りをしたが
実際の雨はあまり降っていない。

雨も必要であるが
バイクで病院通いをしている身としては
降ってないのが何よりありがたい。

病院からの帰りはまぁ
降っていてもカッパを使えば済むのだが
行きで降っていると濡れて病院に到着し
濡れたカッパを脱いでバイクに掛ける
というのも面倒であり、
何よりその濡れたヤツをもう一度着る
という感じがあまり嬉しくない。

ということで、朝、
病院へ行くときに降っているのではないか
という予想?/懸念?(&ネットの天気予報)
に反して曇ったまま保ってくれているという事が
それだけでちょっとした幸せのタネである。

幸せというものは
ほんのちょっとした事でいい。
それだけでありがたいものだ。
posted by ふぅ〜わり ハッピー at 11:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2011年06月24日

自分らしさ

若い人は、自分らしさをさかんに意識する

それは当然の事だ。

しかし、現代は何でもありなので
逆に自分らしさが見えにくい。

自分らしさは制約があった方が見えやすいのだが
若い人は無意識に制約を嫌う
そこで自分らしさが何かが見えにくくなる

判りやすいところで言えば
学校の科目。
この科目って「枠」があるから
自分の得意・不得意がわかりやすい。

ちなみに
得意もないが不得意もない
というのも
自分らしさだったりするのだが

それはなかなか そうは捉えられないものだろう。

また、不得意・苦手も「自分らしさ」
の一環なのだけど、
若い内はそんなことは認めたくないかもしれない。

自分らしさをどう見るか、どう出すか は
人生をどう考えるかという事と密接に関係あるのだが

ここで言った事などを題材にしての
「哲学」の時間を中学校くらいで設けてやる
という事が

現代の世の中では必要ではないか
と、そんな気がする。
posted by ふぅ〜わり ハッピー at 10:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月07日

人生と 自慢

あまり自慢ばかりする人はハナに付くが

(まあ、これには、
 人の話を聞かずに…
 ってのがついて、それで嫌がられるのが多いとも思う)

自慢を 無邪気に しあいっこ 
という
大らかな社会の方が愉快に過ごせるような気もする。


私は、どちらかというと

「自慢をする人」をツマラン奴 と見る家庭文化で育ったので
どうも自慢話の雰囲気が出ると居心地が悪い。
人の自慢話はまだしも、自分では自分の自慢話をしたくない。

自慢でなくても、
あれこれ 自分の方から話をするのも
沢山しゃべると、なんだかちょっと自分に居心地が悪い。

でも、一方で、
まぁ、いいじゃないの、自慢くらい
お互い 自慢しあって、 誉めあって
そのほ〜がいいんじゃない? って
吹っ切れた様に思うのです。

ねぇ… (^^)
い〜〜んじゃないかなぁ、そういうのも。

まあ、つまりは、それによって
おおらかな社会ってのを実現させたいのですけどね。
posted by ふぅ〜わり ハッピー at 16:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2010年06月02日

いろいろな生き方について

人生の送り方は人さまざまで

芸能界を目指す人もいれば、農業を目指す人もいる
コック、パイロット、画家、サラリーマン、様々な目標や満足がある。

芸能界だって、人から認められるのが嬉しいという人もあり
人を笑わせるのが好きというのもあり、
歌を歌いたい、演劇の魅力にとりつかれた、名声はどうでもいい
というのもある。

それぞれ、自分の人生の実感の仕方が違うということだ。
これは有難いことで、
皆が同じ事でしか人生の実感を味わえなければ
とんでもない競争になるのではなかろうか。

考え方一つで、何が人生に満足をもたらすかは違ってくる。
その考え方がころっとかわる事もある。

名声・名誉にとりつかれていた人が、ある時家族の大切さに気づく
というのは映画などでもよく取り上げられるパターンだ。

ただ、自分の存在をまず自ら実感したいというのが
どの人生であれ人間共通の望みであるようにも思える。

そう考えると、どんな人生であれ、
自分が納得できるかどうかが一番大切だということになる。
(無論、そのために人を犠牲にしていいということはない。)

その納得感が何によって得られるかは人によって様々だ。
哲学を追い求めるのも、数学にとりつかれるのも
坊さんになるのも、内なる欲求のなせるわざだ。
これらの生き方には他人の評価はあまり介在する余地がない。
自ら内包する絶対的な希求感というものを追求することになる。

ただ、あまりにそういう絶対的なものを追うと
人間、動物、生命に天から与えられたものを軽視してしまうかもしれない。
食を取らず、睡眠を削り、精神的なものに傾注してしまい勝ちとなる。
食欲、睡眠欲、色欲、それらは天から与えられたのであって、
極度に軽視してしまうとやはり「生の本質」を外す認識しか得られないし
自らの「生」を軽視して、命を自ら絶つということになるのではないか。

人間はつい、
自分の人生に悲観し、俗悪なものを否定し、他人への面当てに
自殺をしてしまったりもする存在であるが

やはりどうやら自殺というのは「本解」ではないように思える。

(「本解」は「正解」に近い概念として出した。
 正解というと何か一つだけ正しい解というような響きがあるので避けた。)

いわゆる「俗」を否定せず、
それを大きく取り込んでなお「生の本質」をしっかり見つめる
そういう立場で、満足のいく人生 というやつを送りたいものだ。

「生の本質」を考えるときに私は歴史を考える。

弥生時代、室町時代、江戸時代、いや昭和初期にだって夢みてなかったような
豊かな時代を今我々は送っている。

昔から比べれば、
王侯貴族でさえ食べることの出来なかったご馳走を
我々は毎食食べている。
(平均的な家族でも、普通に食べることができる、というべきか)

では、昔の人より今の人は幸せなのだろうか。

その観点が私の頭を離れることは無かったし、
今後もないだろうと思うのである。
posted by ふぅ〜わり ハッピー at 05:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記